小泉八雲(Lafcadio Hearn)の父親、チャールズ ブッシュ ハーンについては英国軍医だったこともあり写真や記録がそこそこ残っています。
しかし母親のローザ カシマチに関しては写真は公になっておらず、情報についても英語や日本語で記述されているものも少ないのか、なかなかたどり着くのが難しい状況にあります。
そんな中でも五体満足で、ある程度健康なうちに
「ローザおばあさまと同じ景色!見たい!!」
ということで1年を過ごしたアイルランドのリゾート地トラモア(小泉八雲が泳ぎを覚えた場所。)からLCCを乗り継いで2019年5月21日、コルフ島へやって参りました。
ローザさん、コルフ島で何してたの?
話は最初の結婚に遡ります
キシラ島出身のローザおばあさまはイタリア系の割といい家系に産まれたが故に最初の夫であり私の先祖にも当たる英国軍医チャールズ ブッシュ ハーンとの結婚は駆け落ち同然。
上記のブログ記事でも紹介しているように当時のキシラ島はイギリスの保護領。
当然のことながら周りから祝福されるはずがありません。
そうはいっても恋は盲目。
ローザの妊娠が発覚した際は父親に激怒されます。
その後、運良く赴任できたレフカダで式を挙げて長男ジョージを授かったのでした。
(ちなみにジョージはラフカディオが産まれた直後にワンオペ看護の甲斐なく病死します。)
もし、その結婚が父親にあたるアントニオ(ローザのミドルネーム)おじいさまに反対されずに キシラ島で結婚、出産をしたのであれば、私の高祖父の小泉八雲の本名は ”ラフカディオ” ではなく ”キシラディオ” ハーンになっていたかもしれませんね。
余談ですがたまたま乗り込んだタクシーの運転手さんがお隣に住んでいるとのことでした。
前述の通りチャールズの職業は英国軍医。(当時、アイルランドはイオニア諸島と同じく英国領。)
言わずもがな戦地へ従軍して働くのが仕事なので息子と一緒に暮らした期間はごく僅か。
最後に言葉を交わしたのも7歳とまだまだかわいい盛りの頃でした。
また、ラフカディオがまだ2歳の頃にレフカダからアイルランドへと引っ越しますがそこでの暮らしも陰鬱な天気(わかるよ〜涙)そもそも文盲な彼女にとって英語で暮らさなければいけないその環境の辛さは察するに余りあります。
それ故、精神を病んでしまったローザは療養及び三男の里帰り出産も兼ねて共に故郷に帰ることになりました。
また、下記の記事で詳しく触れていますが戦地からダブリンに帰ってきた夫のチャールズはなんと!寡婦となっていた幼なじみの女性と結婚します。
ご先祖様のことを悪く言うのは良くないのは存じ上げております。
とはいえわかりやすく形容すると、クソです。
同じ時期にローザも身分が同じ、イタリア系男性イオニアス カバリニスとキシラ島で結婚しました。
ただこれには条件がありました。
それは
ローザとチャールズの間に産まれた息子2人の保護義務はいかなる場合においても請け負わないということ。
よって三男のカルロスとその乳母はダブリンへと旅立ちます。また、保護者であるチャールズとラフカディオの大叔母であり後見人のサラ ブレナンは大変裕福だったこともありこの件に関してはそこまで揉めなかったと思われます。(結局破産してしまいますが。)
その後、イオニアスとの間には2男2女を授かりました。
とはいえ再び息子たちに会いにダブリンへ
アイルランドで精神を病んだ姿を見せつけてしまったローザおばあさま。
現在残念ながら写真はありませんが美人だったそうで最初はかわいがられたもののチャールズファミリーからの評判は右肩下がり。
そして両親不在の中、ダブリンで少なくとも4度の引っ越しをしたラフカディオ。
いつ頃かははっきりしませんが息子たちに会いにと訪れた結果、なんとか出会えた息子たちの親戚からからローザはひどい仕打ちを受けます。
また、2017年に現在わかっているラフカディオが住んでいた家々を巡ったのでご興味ある方はどうぞご覧くださいませ。
小泉八雲 (ラフカディオ ハーン)の旧居を巡る ダブリン編①
現住所を教えてもらえない
実の子だと言うのに…酷すぎます。
ギリシャの離島からアイルランドを訪れることの難易度は現在の比ではなかったでしょうしインターネットは愚か電話も写真も満足にない時代。
希望を託してやっとの思いでダブリンを訪れた結果は散々なものでした。
それによって酷く精神を病み、狂ってしまったローザ。
宗教(ギリシャ正教)にすがります。
また、宗教的熱狂から来る躁鬱病と診断され今も昔もイオニア諸島の中でもとりわけ東にある田舎のキシラ島では治療ができないということで…長くなりました。1872年3月25日にコルフ島の精神病棟へとやってきます。
コルフ島にはどのくらいいたの?
49歳の頃にキシラ島からやって来たローザは1882年12月12日、59歳で亡くなるまでの10年間を精神病棟で過ごしました。
その間の記録や言い伝えについては…ごめんなさい。リサーチできていません。
というのも当時のローザはただの患者。
100年以上前のことということもありコルフで彼女を深く知る人に出会うことはありませんでした。
亡くなった当時、32歳だった息子のラフカディオはシンシナティでの諸々を経てニューオーリンズで暮らしながら徐々に文筆家や翻訳家としての頭角を現しはじめた頃でした。
1882年に出版されたラフカディオが携わった作品はフランス人作家テオフィル・ゴーチェの作品、One of Cleopatra’s Nights and Other Fantastic Romancesの英訳です。
日本語でもKindleで読めます。
今のように世界的に有名ではなく、ましてや小泉八雲を名乗りはじめるずっと前のことです。
ローザは文豪の母でありながらただの宗教狂いの患者として過ごしたことでしょう。
ラフカディオ自身もローザに思いを馳せながら
「財産よりも何よりも、ただ母親の肖像が欲しい。」
と語っています。
最後に母子が言葉を交わしたのは1854年。ラフカディオが4歳の頃でした。
当時のものを残した小さな博物館に特別に入れてもらいました。
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